こんにちは。
永田学習塾、英智義塾、塾長の永田と申します。
私が塾を始めてからかれこれ40年ちかく経ちました。
教師と言う職業が嫌いだった私が、なぜいつの間にか40年も塾講師をしているのか?
私の自己紹介を含め、永田学習塾、英智義塾の道程をお話ししたいと思います。
そもそも塾を始めようと思ったきっかけは、40年ほど前にご近所の方がお子さんを少しみてほしいと
頼まれたことでした。
当時大学3年生で、上智大学の応援団に所属していたのでそれは忙しい日々を送っていましたが
その合間をぬってその中学生のお子さんの勉強をみていました。
正直その時が教えるということは初めてでしたけど、なんとか成績をあげたい!なんとかわかるようになってほしい!
という思いだけで教えていたように思います。
そうして教えているうちにその生徒さんの成績がグングン上がり、口コミからいつの間にか宣伝もしていないのに
気付いたら生徒さんが20人近くになっていたのを覚えています。
全く塾などをするつもりもなかったので、「どうしよう。。」という思いでした。
塾を開業したい!
という思いは全くなく、大学院生になってからもどんどん生徒さんは増えていって応援団の後輩などにも頼んだりしながら
なんとか自宅で生徒さんをみていました。
そのころはまだ看板も出していなかったと思います。
というか、理系なので研究職につくつもりで電気化学の研究をしていました。
大学院が終了する頃には50人近くになっていて、自宅の1階の2部屋はいつも人でいっぱいでした。
某大手企業に内定が決まっていましたが、50人の生徒のことを思うと辞めるわけにもいかず、
内定は蹴って塾を開業することにしたのです。(教授や親には散々叱られましたが)
教師は嫌いだけど、子どもは好き
思えば子どもが好きだから応援したい!という思いだけでここまできたように思います。
大学生の頃は応援団と言う理不尽きわまりない部活に入っていたのも、根っからの
「一生懸命頑張っている人を一生懸命応援したい!」
というわけのわからない性質からなんでしょうね。
塾っぽくない塾
塾っぽくないね、ってよく言われていました。
というのも、2階建ての自宅でやっていたこともあり、一応1階は教室で2階は自宅という感じにはしていました。
が!
自宅で休んでいても生徒は、塾がない時間帯でも2階にあがってきて勝手にゲームしたり、
昼寝したり、ご飯食べたりと大家族のような生活でした。(なぜか大学の後輩の先生たちも棲みついていました)
そこでは恋愛の相談や家庭の悩みなど、勉強とは関係ない話しばかりでしたけどね。
一緒にインスタントラーメンを食べてから「じゃ、そろそろ授業だぞ」と言う感じで1階に行く、なんて
生徒はごろごろいましたね。
一時は不良が更生する塾、なんて評判になって遠方から札付きの不良がきたりしたこともありました。
正直、私はなんにもしていないんですけどね。
ただ一緒にダラダラ世間話したり、一緒にご飯作ったり、一緒に昼寝したりするだけでしたけど、
何故か更生していくんですよ。
一緒にや〇ざごっこしたりもしました。。。
いまは当時のようなわかりやすいような不良はいないですね。
もっとなんかこじらせているような気がします。
でも、基本のところは寂しいだけなのかなと思っています。
大人がきちんと一人の人間として向き合ってあげればいいのかな、と思います。
徹夜会といって一晩中勉強したりする日もありました。
あの時みた朝日を君たちは忘れてはいないか。
塾なのにプールに行ったり
何故か遊園地に行ったり。。。
博物館などにも行きました
誕生日会とかもしましたね。
泊りがけの合宿などもしました。
遊んでばかりいたわけではなく
きちんと勉強もしていましたよ。
そんなこんなで15年くらい怒涛の月日が経ちました。
生徒も80人ちかくになった頃、いままで自分がどこにも社会に出ていないことに気付いて、
独自の教育だけではなく、他の教育もみてみようと思い、たまたま新聞の求人広告に載っていた
中堅予備校で働くことを決意しました
(正直どんな予備校なのか全くわからず見てその日に面接に行きました)
面接では、「予備校の経験はありますか?」と聞かれ、ないと答えると
「現在、講師を取る予定は、ありませんが、テストだけ受けて行ってください」
と言われました。
テストが終了し、待合室で待っていると、教務主任のような人が来て
「よかったら、明日からでも授業を持ってください」
何なのー! と言うのが予備校講師のスタートです。
午前と午後、予備校で浪人生を教えて、その後永田学習塾で教えるという生活が続きました。
いままで外の世界をみたことのなかった私にはとてもいい経験でした。
予備校では3年目くらいで講師が50名ちかくいるところのトップクラスの人気講師になることができ、
夏期講習などは毎回開始5分で定員になるという伝説も生み出しました。
予備校ではトップ講師で、出版社からは研究社、旺文社の入試問題正解の英語長文の執筆をまかされるまでになりました。
といっても、1人で予備校と塾の二足の草鞋を履くことは厳しかったようです。
徐々に永田学習塾の生徒の不満が増え続けてきました。
他の先生にお願い知ることも多くなり、いままでのように空き時間で勉強を教えてあげることも
できなくなりました。
気付くと永田学習塾の生徒は10数名になってしまいました。
本当は永田学習塾の生徒にきちんとした教えをしたい!ということから予備校で修行したつもりでしたが、
これでは本末転倒ということできっぱりと辞めて、新たに心機一転教室も移転して始めることにしたのです。
予備校で培った英語教育の知識もあり地元で高度の大学受験もできる塾として、高校生にも人気になり生徒さんも増えてきました。
ちなみに当塾の先生方はみんな当塾の元塾生、教え子というのも特徴です。
大学生になり永田学習塾で教えたい!という元生徒さんが多くなってきたので、もう1教室として始めたのが英智義塾です。
ちなみに永田学習塾の方も人数も増えてきたので、八広駅の近くに少し広い教室に移転することとなりました。
こうしてみると本当に40年なんてあっという間でした。
昨今、小さい塾は淘汰されつつあり、気づけば当塾は地元でもかなり古株となっていました。
でもこうしてまだ子供とかかわりをもてさせていただけることに深く感謝しています。
また、40年もやっていると元生徒が親になって自分の子どもをみて欲しいといったことがとても多くなっています。
と言うか、当塾の特徴だと思います。
15年くらい前から「うちの子みてよ」と元生徒が自分にそっくりな子どもを連れてくるようになりました。
地元だけではなく横浜とか世田谷、船橋あたりからも通ってくる2世もいます。
いま思うのはこうして大人になっても
「先生!」と言って顔をみせにきてくれることが私の宝でもあると思っています。
塾といっても、勉強を教えることだけではないというのがモットーです。
だからといって更生施設のようなことをしているわけではなく、合格実績をみていただければ
きちんと成績を出していることはお分かりいただけるかと思います。
この先生のいう事なら聞ける!
という関係性が作れれば、成績なんて後からついてくるものと思っています。
大手予備校で教えられている古文の先生も常勤でお願いしております。
そんな流れでここまできた永田塾です。
私はこれからもずっと生徒の応援団として応援していきたいと思っています。
”君がどんなに遠い夢を見ても、君自身が可能性を信じる限り、それは手の届くところにある。”
(ヘルマン・ヘッセ)